2025年5月8日木曜日

先週(5/4)の講壇

「イエスの初奇跡」 

ヨハネの福音書2章1〜11

 母マリアはイエスにその旨を伝えると、イエスは「あなたと私と何の関係がありますか」と語りました。イエスはこれからは母マリアの子どもとしてではなく、父なる神様の子どもである事を明らかにされようとして語られたのです。
 イエスは給仕の者達に水がめいっぱいに水を汲む様に命じられました。そして6つの水がめがいっぱいに入れられました。それを世話役のところに持っていくと上等なぶどう酒に変えられていたのです。この様にして神の子としての奇跡を初めてなされたのです。(要約)

先週(4/27)の講壇

「神の深みさえも探られる方」 

コリント人への手紙第一2章6〜10

 言葉を変えて言うなら私達が霊によって歩む事が出来ないのは自分という魂の部分である目で見、耳で聞き心の思いによって縛られているからです。だから霊的な事を知る事が出来ないのです。魂というのは常に自己中心的に生きようとするからです。
 霊によって生きる事は、目に見える状況(苦しみ、死、絶望)では希望がないように見えても、神様はその背後に深いご計画を聖霊を通して示されます。全ての選択は私達に委ねられています。自分の知恵や力が砕かれ聖霊によって生き、主に用いられるお一人一人となります様に。(要約)

先週(4/20)の講壇

「御言葉通りの復活」 

ルカの福音書24章1〜9


 イエス様のご遺体に香油を塗りに来たマリア達は既に墓を塞いでいた大きな石が横に取り除けられていたのを目撃したのです。そこに二人の御使いが現れて「なぜイエスを死人のうちから探すのか。もう甦られた」と告げたのです。
 そしてイエス様が生前に十字架の御業を終えて三日目に甦ると語られていた御言葉を思い出したのです。この出来事を他の弟子達に真っ先に伝えに行ったのです。更にその後に甦られたイエス様が多くの人達に現れたのです。これは復活の事実を語る信憑性のある出来事なのです!(要約)

2025年4月15日火曜日

先週(4/13)の講壇

「伝道は聖霊の働き」 

ヨハネの福音書1章35〜42


 バプテスマのヨハネから始まり、アンデレ、その兄弟シモンと福音は確実に広がりを見せていました。そしてその伝道は決して話術巧みな方法で説得したのではありませんでした。
 むしろシンプルな言葉で、自らが見、聞き、体験した事をそのままありのままに語る事でした。そしてその言葉を通して聖霊様が働かれたのです。
 伝道は難しいと考える事、それに伴う様々なネガティブな思いが二の足を踏む様に作用して来ます。しかし伝道は本来はこの様にシンプルなものです。そして聖霊様にお委ねしながら執り成すのが望ましいのです。伝道は最初から最後まで聖霊様のお働きであると言えるのです。(要約)

2025年4月7日月曜日

先週(4/6)の講壇

「神の一人子イエス」 

ヨハネの福音書1章12〜18


 そしてイエス様を信じる者は誰でも神の子としての特権を与えて下さるのです。それゆえに、イエスキリストを信じない者は愛の対象ではあっても、神の子としての特権は得る事が出来ないのです。
 同時にイエス様が神の一人子としてこの地に来て下さり十字架の御業を通して救いの道を開いて下さった事により、目には見えない父なる神様をお示しになられたのです。これは神様の一方的な憐れみと慈しみなのです。(要約)

先週(3/30)の講壇

「エベネゼル」 

サムエル記第一7章11〜17


 それをご覧になった主は再びイスラエルに力を与えペリシテを打ち負かしたのです。その様にしてサムエルの存命中はイスラエルに平和が訪れたのです。
 私達の教会も様々な事がありましたが、創立60周年を迎える事が出来ました。エベネゼル(ここまで主が助けて下さったの意)なる主の導きと助けがあったのです。これからも変わりなく主が導き助けて下さるのです。(要約)

先週(3/23)の講壇

「人の知恵によらず、神の力による」 

コリント人への手紙第一2章1〜5


 人間には霊、見える世界で生きる体があり、思いや、感じ、意志を働かす魂の部分があります。この魂の部分は全ての事を理解しょうとします。霊は信じる事です。
 パウロは自分の力、説得力のある知恵の言葉で働いた経験から、ただ十字架だけを用いたい、また、弱く、神様を畏れおののいて御霊の現れとその力によって働きたいと言っています。それが霊に属する働きであり、自分という自我が死ぬとき霊は生きてきます。自分の力を超えた神様の働きを認識する事です。霊的か肉的かは態度によって決まります。自分か神様かという働きになります。(要約)

先週(3/16)の講壇

「主の勇士」 

サムエル記第一17章32〜40


 ダビデはゴリヤテを倒すのに剣や槍は必要としませんでした。甚しくは鎧兜さえも必要としませんでした。それは血肉の戦いではなくイスラエルの真の神に反逆する悪の霊達との戦いである事をしっかりと認識していたからです。
 ダビデは普段羊を守るために用いていた石と投石袋で戦いに挑みました。最初の一つ目の石がゴリヤテの額に当たり見事にゴリヤテを倒したのです。私達も様々な攻撃を仕掛けて来る悪の勢力に立ち向かう必要があるのです。主は勝利を既に取られているからです。(要約)

2025年3月10日月曜日

先週(3/9)の講壇

「対照的な二人」 

サムエル記第一16章14〜23


 主がお命じになられた聖絶に関する事で命令を破ったサウルとサウルに継ぐ王としての候補にも上がらなかったダビデは大きな違いがありました。
 それは「主と共に歩む」と言う生き方そのものでした。人はその人のうわべを見て判断しますが主はその人の心の中をご覧になられます。その点でサウルとダビデは大きな差があったのです。
 私達には外見などでコンプレックスを持ちがちですが、主はその様な事は気にしておられません。心を見られるお方だからです。そして何よりも私達は主に造られた傑作品なのです。それ故に主と共に歩む時に、本来造られた目的に従って歩む事が出来るのです。(要約)

2025年3月3日月曜日

先週(3/2)の講壇

「いけにえ?or 従順?」 

サムエル記第一15章19〜26


 アマレク人全てを聖絶し焼き尽くす様に命じられた主のご命令をサウルは破ってしまいました。そしてサウルは分捕り物の中から羊や牛を取ったのです。
 これは明らかに主のご命令に背く罪でした。しかもサウルはその事を正当化しようと兵士に責任転嫁したのです。それによってサウルは王の座から引き下ろされてしまったのです。
 主は既にサウルからダビデへと王位を移す事を決めておられたのです。私達は自分の考え、経験によって主の御言葉に不従順ではないでしょうか。お互いに再度襟を正していきたいと思います。その様な歩みを通して主に喜んで頂ける歩みをしていきましょう。(要約)