2017年12月10日日曜日

先週(12/3)の講壇

アドベント第一聖日

羊飼いなるメシヤ」            ルカの福音書2815

康輔 牧師
 
 今日からアドベント(待降節)が始まりました。羊飼いなるメシヤとしてのキリストのご降誕を待ち望む思いで、アドベント週間を1224日までの四週にわたって過ごす事になります。
 今日の本文は、羊飼いたちにスポットが当たっています。メシヤ誕生の知らせを真っ先に聞いたのは、当時人々からのけ者にされ、相手にされていなかった羊飼いたちだったのです。それは、メシヤとして来られ、羊飼いとして生まれられたキリストが、その様な者たちの為に来られたと言う事を考えると、キリストの人間に対する憐れみと慈しみを知る事が出来るのです。
 羊飼いたちは、同時に命がけで羊たちを守る人達でした。狼や野良犬などから羊たちを守っていたからです。キリストもまた我々人類が救いを受ける事が出来る様に、十字架の御業を通して命がけで我々を救って下さったのです。その知らせを真っ先に羊飼いたちに告げられたのは、我々人間に対する神様の憐れみと慈しみであるのです。どの様な所から私たちが救われたのか、アドベントの週間を通して更に深く味わう、皆様となる事が出来る様、心からお勧め致します。(要約)

2017年12月3日日曜日

先週 (11/26)の講壇

 

一粒の麦」実を結ぶためには          ヨハネの福音書1224

 
豊山 カヨ 牧師

 なぜ神様は聖書の色々なところで「花を咲かすように」とは言わずに「実を結ぶように」と言っておられるのでしょうか?イエス・キリストに似た品性を言い表していますがその実とは人格であります。一粒の麦が実を結ぶためにビジョンを描くことです。
 神様の御国の原理は、からし種のようなものです。種をまきながら多くの実がなっているのを先に見ることです。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。また、一つの種が必ず地に落ちることは、上から下に降りることであり、謙遜の原理とも言えます。時には神様は私たちに試練を与え、低くされ、苦しみの道を歩ませる時があります。その理由は私たちにとって最高の良いものを与えて下さるためであります。悔しい思いよりも、たといどのような状況におかれたとしても神様の摂理がある事を覚えましょう。木の実は結んだ後自分では食べません。実の中には種が入っているのでその種が地に落ちてまた違う木を作ります。
 実の最後の目的は再生産することです。実を豊かに結び、口数少なく、他の人を配慮する心、謙遜の限りを尽くして自分を低くし、どのような状況に置かれたとしても、主の十字架の陰に自分を隠し、すべてを主の御手に委ねるものとして人に仕えつつ、さらに多くの実を結んでいくことが出来ますように。(要約)

2017年12月1日金曜日

《12月度聖句》


マリヤは男の子を生みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。       〈マタイの福音書1章21節〉

2017年11月26日日曜日

先週(11/19)の講壇


アブラハムの信仰と主の憐れみ」          創世記22514

康輔 牧師

 主はアブラハムに対して、約束の子イサクを全焼のいけにえとして捧げる事を命じられました。そして、彼は主のご命令に従順に行動に移しました。しかし、「あなたの子孫が増え広がる」と約束されていた御言葉を信じていたので、その様な命令があっても神様がイサクを生かして下さる事を信じ切っていたのです。それ故に、モリヤの地に同行させた若者に、「私と子どもは礼拝して戻って来る。」と言い残しました。その告白が信仰から来る告白だったのです。
 更にイサクが「いけにえの羊はどこにあるのか。」と父に問うた時にアブラハムは、「全焼のいけにえの羊を主は備えて下さる。」と確信を持って語りました。これも信仰から来る告白だったのです。
 そして主は全焼の雄羊を備えられたのです。これは、正にイエスキリストの十字架の上で捧げられるいけにえのひな型だったのです。それによって私達は大きな憐れみを受けたのです。(要約)

2017年11月20日月曜日

先週(11/12)の講壇


約束の成就を体験したサラ創世記2117

康輔 牧師

 主はアブラムとサライに対して、女奴隷ハガルとの間に設けていた子イシュマエルではなく、アブラムとサライの間の子イサクを通して子孫が増え広がる事を約束して下さっていたのです。そして、いよいよイシュマエルが成人した13歳を過ぎた14歳の時に、約束の子イサクは生まれたのです。
 しかも、それは100歳、90歳と超高齢になっていたので、人間的な見方では不可能な事が起きたのです。そして、それはとりもなおさず神様の約束が成就した結果だったのです。そして、サラは神様のなされた御業に対して証しをしました。
 後にマリヤが受胎告知の後に主を賛美した「マリヤの賛歌」と似たものとなっている事を知ります。サラにしてもマリヤにしても、主がなして下さった御業を通して、主が生きておられる事を彼らが身を持って体験したのです。それは、今を生かされている私達にも適用出来るのです。神様から頂いた約束の御言葉は必ず成し遂げられるのです。(要約)

2017年11月12日日曜日

先週(11/5)の講壇


裁きの中にも憐れみと慈しみ」          創世記192329


  康輔 牧師

   ソドムとゴモラの人々が罪に罪を重ねて主の怒りが頂点に達した時、天から硫黄と火が降り主の裁きがなされました。その時に、御使いはロトの所に現れて、家族をソドムとゴモラから避難する様に語られたのです。それは、ソドムとゴモラの人々と一緒に滅びる事のないためでした。
 しかし、ロトの妻はソドムとゴモラが象徴する「この世と富、快楽」に対して未練があったので、御使いの命令に反して後ろを振り返ってしまい、塩の柱になってしまったのです。主の恐ろしい裁きの中で、ソドムとゴモラの人々、ロトの妻が標的となってしまったのです。それは、主のご命令に逆らう形となってしまったからです。
 それに対して、主を愛し主に従おうとするアブラハムとロトは主が覚えて下さり、裁きから逃れる事が出来たのです。それは、正に罪を徹底的に嫌われ、裁きを下されるお方ではあるが、主を愛し、主に従うものに対しては憐れみと慈しみを惜しげもなく注いで下さるお方である事を知るのです。私達も、主の守りの中で永遠に過ごす事が出来るのです。
(要約)

2017年11月5日日曜日

先週(10/29)の講壇


新生活ガイド」     エペソ人への手紙42532

豊山 カヨ 牧師

 聖書は、新しい人を身に着けた聖徒の具体的な歩みのガイドブックです。信じる事は実践に繋がっているので、信じる信仰と歩みを切り離す事は出来ません。パウロは古い人を脱ぎ捨て、真理に基づく義と聖をもって造られ、新しい人を着た聖徒が一番先にすべき具体的な事は言葉の変化だと提示しています。言葉は単純に意思疎通の為の道具ではなく、私達の人格を代弁し、私達を救って下さった神様を伝える道具となります。人を引きずりおろす様な言葉ではなく、人を生かし、人を立たせる言葉で恵みを与える事が出来るならどんなにか感謝な事でしょうか!
  次に、パウロは聖徒達の弱さと失敗の可能性「怒り」を認めながら、この失敗に対して知恵ある者として行動する様に、そして問題によって怒りが生じてもクリスチャンとして怒りを治める態度をとる様に勧めています。怒りは悪魔の出入り口です。怒りそのものは自然な感情ですが、罪を犯す可能性が大いにあるものです。この怒りを治める知恵として「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」と言っています。
  全ての人間関係の中心にはイエス様がおられます。イエス様は二人の関係の隔ての壁を打ち壊し一つにされました。したがって救われたクリスチャンがイエス様の赦しの方法を忘れて共同体の団結を乱す非難や悪行をするなら、私達の内に居られる聖霊様を悲しませる事になります。私達の歩みが、新たにされてその姿を通して健康な教会、またイエス・キリストを現す教会となります様に心から願います。(要約)

2017年11月1日水曜日

《11月度聖句》

 

神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

〈ローマ人への手紙 4章21節〉

2017年10月29日日曜日

先週(10/22)の講壇


契約を守られる神様」         創世記1718

康輔 牧師
 
 主は二十四年ぶりにアブラムに現れて、アブラムとその子孫を祝福される事を確約されました。そして、既に九十九歳を迎えていたアブラムでしたが、主は同様にして「あなたの子孫が増え広がる。」と約束を確認させられたのです。
 しかも、「あなたを多くの国民の父とする。」と言う言葉で強調しつつ、アブラムではなくアブラハムと呼ぶ様にすると仰せられ、アブラハムと改名されたのです。それは、「ハ」が入る事によって「複数形」として変わる、ヘブル語の特質があったのです。
 アブラハムにとって、この二十四年の間主が再び現れて直接語られる事を待ちわびていたかもしれません。そして、二十四年の歳月が流れて、アブラハムの所に現れて、主が語られた約束を再確認されたのです。それによって、主は語られた御言葉を必ず成し遂げられるお方である事を知るのです。私達も、聖書の御言葉から約束を頂いたのであれば、私達の希望する時間とは違ったとしても、神様時間で必ず成し遂げて下さるのです。(要約)

2017年10月15日日曜日

先週(10/8)の講壇


とことん神様の恵み!」                          創世記121019

  康輔 牧師
 
 私達は人生の様々な場面で、危機や不安、恐れにおおわれてしまう事があります。その様な時にどの様に対処しているでしょうか。どうしても人間的な工作や知恵で、その状況から抜け出そうとします。もちろん、その様な事で、乗り越えられる場合も多々ある事でしょう。しかし、その様なものではどうしようも出来ない事柄もあるのが現実です。
 アブラムも、ネゲブでの飢饉がひどくなると、エジプトに逃れて行きます。そして、妻サライの事でまた余計な悩みも増えてしまいました。それは、妻サライが美人な為に、エジプトで妻を奪われ、じぶんは殺されるのではないかと言う恐れと不安でした。そこで、彼は妻に「妹だと言ってくれ。」と頼みます。その事が災いして、エジプトのパロ王の怒りに触れてしまいます。
 その様な、信仰から出た行動ではなかったのですが、最終的には妻を奪われる事なく、自分も殺されず、しかも所有物も戻されて帰る事が出来たのです。これは、神様の恵みであると言えるのです。私達の弱さ()に働かれる神様の強さをあらわしています。そして、私達は弱さがある故に、更に神様にお頼りして折にかなった助けを頂く事が出来るのです。それは、正に神様に全幅の信頼を置く者が体験する事が出来る恵みなのです。(要約)