2017年4月16日日曜日

先週(4/9)の講壇


御言葉の成就の集大成」              ヨハネの福音書192630

 綾 康輔 牧師

 イエス様は十字架での御業を成し遂げられる時、語られた御言葉が七つあります。その中で、幾つかの語られた御言葉を見ていきます。まず、甥であるヨハネに対してご自身の母であるマリヤを引き取る様にされました。それは、夫を早くに亡くした母を一人残していくには心痛かったからです。そこに、「あなたの父と母を敬え。」と言う律法を守ろうとしたイエス様の人の子としての姿が現されているのです。     
 また、最後の晩餐を終えてから、逮捕、明け方前の裁判、鞭打ちの刑、重い十字架を担いでのゴルゴタへの道。それらを歩まれたイエス様は「渇き」を覚えられました。それは、罪を犯す事以外は私達人間と同じご性質を持って歩まれた、人の子としての姿が映し出されているのです。そして、この時に「私が渇いた時に…酢を飲ませました。」と言う預言が成就したのです。
 最後に、イエス様は十字架上で息を引き取る時、父なる神様に「霊をお渡し」になられました。これは、「ちりはもとあった地に帰り…霊はこれを下さった神に帰る。」と言う預言が成就したのです。この様にイエス様の十字架の御業は、神様の預言の御言葉が成就する事の集大成であったと言えるのです。その事故に私達は救いを受け、神様の子どもとしての特権を得る事が出来たのです。今日から始まる受難週が、更に主の御苦しみを覚え、来週のイースターを迎えたいものです。(要約)

2017年4月9日日曜日

先週(4/2)の講壇

「さじを投げたピラト」    ヨハネの福音書19章9~16節

 綾 康輔 牧師
 
 いよいよ十字架を目前にして、総督ピラトの元で裁判を受ける事になったイエス様は、「あなたはどこの人ですか。」と言うピラトの審問に対して沈黙されました。それは、既にイエス様が王であり、真理の証しをする為であると語っていたからです。
 更にピラトはイエス様に対して「自分にはあなたを釈放する権威も、十字架に付ける権威もある。」と豪語します。それに対しては沈黙されていたイエス様も、「それが上(父なる神)からの者でなければわたしにはなんの効力もない。」と言う様な事を語られました。それを聞いたピラトはイエス様が王であり神の子である事を悟りイエス様を釈放しようと努力します。
 しかし、その後祭司長達の言葉、「カイザルの他に王はいない。」と言う言葉を聞き、ピラトはもう足も手も出なくなってしまったのです。ピラトはカイザルの元から派遣されている身であったからです。その様にしてピラトは裁判を終え、祭司長、群衆達にイエス様を引き渡したのです。
 ピラトの前にカイザルはとても大きな存在だったので、カイザルに背く様な事は出来なかったのです。でも、それがイエス様の十字架の刑を確実なものとする契機となったのです。全ては私達人類すべての過去・現在・未来の罪を背負って死んで下さったのです。そして、死んで終わったのではなく死を打ち破り、蘇られたのです。来週は受難週に入ります。更に主の御業を覚えて一週間を過ごしたいと思います。(要約)

2017年4月2日日曜日

先週(3/26)の講壇


死んだ者からよみがえらされた者へ」          エペソ人への手紙2110

 豊山 カヨ 牧師

 1章は、贖いに対する賛美と霊的成長の為のパウロの祈りでしたが、2章はクリスチャンの地位について書かれています。神様との関係は私達の地位を決定します。救いが私達にもたらした本質的変化は、新しい私達の地位です。私達は今や神の国の市民であり、神の家族の一員となりました。パウロは一個人としての、また、共同体の一員としての私達の新しい地位について説明します。
 クリスチャンは過去と現在がはっきり区別された人々です。パウロは救いを受ける前の私達の過去の姿に対して、自分の罪過と罪との中に死んでいた者であったと言っています。この世の価値と方式に従って歩み、また、サタンの影響力の下にいて、その結果として怒りを受けるべき子らでした。神様の裁きを受けるしかない悲惨な立場にいたわけです。
 しかし、神様の愛と哀れみによって御子イエス様の十字架の犠牲を通して救いの道を開いてくださったのです。私達は新しく造られたものです。私達をキリストと共に生かし、イエス様と共に甦らせ、共に天の所に座らせて下さいました。クリスチャンはキリスト·イエスにあって良い行いをする為に造られた神様の作品です。今の時代だけではなく、後に来る世代にも主ご自身の豊かな恵みを現したいと願っておられる事です。私達が創られた目的を覚えつつ、その事に相応しい歩みが出来ます様に。(要約)

2017年4月1日土曜日

《4月度聖句》


私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。   

<テサロニケ人への手紙第一414>

2017年3月26日日曜日

先週(3/19)の講壇


十字架目前の心の痛み」                ヨハネの福音書121219

 綾 康輔 牧師

 いよいよイエス様はエルサレムに入城されました。それは、ゼカリヤが預言した様に、メシヤは子ロバに乗って登場されたのです。それは、王としてはあまりにもみすぼらしい姿でした。筋骨隆々な白馬に乗って来られたのでもありません。しかし、それは王と言う立場を誇示する方ではなく、王の位も捨てて遜りの極みを身にまとったお方だったのです。
 それ故に、群衆たちはイエス様をローマの圧制から救い出してくれるスーパーヒーロー位にしか思わずに歓迎していた事に関しても、全てご存じの上でエルサレム入城されたのです。それは、父なる神様の御心を成し遂げる為に、また全ての人類を救いに導くための使命だったのです。
 そうとは知っておられても、十字架の御業を目前にされて群衆の子心のうちもご覧になられ、心が痛んでおられた事でしょう。しかし、それも全ては私達を救うために、耐えられたのです。ここに私達に対する神様の愛と、イエス様の遜りと犠牲の御業が表されているのです。その感動が私達の内側で溢れて来るのです。群衆の様な自己中ではなく、他の人達の為に執り成していく事が出来る信仰へとステップアップを踏ませて頂きましょう。(要約)

2017年3月19日日曜日

先週(3/12)の講壇


献身の祝福が身の回りにも」            ヨハネの福音書1218

 綾 康輔 牧師
 
 イエス様がエルサレムに入城される前に、ベタニヤに立ち寄られました。それは、イエス様の十字架の直前である事を現しています。また、ラザロを甦らせた場所でもあったのです。マルタはイエス様の給仕にいそしみ、マリヤは高価なナルドの香油をイエス様の足に注ぎ、髪の毛で拭ったのです。
 マリヤはイエス様の葬りの為に予め用意しておいたのです。また、彼女の信仰から出ている行動が、イエス様の葬りを予め記念すると共に、髪の毛で拭ったマリヤ自身にも良い香油が染みつく祝福に預かったと見る事が出来ます。更に、家中に香油の香りが広がった事で、そこに居合わせた人々も、香油の良い香りの祝福に預かったと解釈する事が出来ます。
 この様にして、一人の献身が本人だけではなく、身の回りの人達にも良い影響を与えていくのです。私達も、キリストのからだを建て上げる為に、教会の一つの器官としてそれぞれの所から集められたお互いです。私達にも、それぞれに与えられたタラントを活かして、身の回りの方達の祝福の為に、用いられて行きたいものです。そのためにも、更にお互いが主に献身の歩みをしていきましょう!(要約)

2017年3月12日日曜日

先週(3/5)の講壇


本質を見抜くイエス様 」   ヨハネの福音書21825

 綾 康輔 牧師

 イエス様は十字架に掛かられる直前に、エルサレムに上られてから宮で商売をしている人達を追い払う、「宮清め」をされました。それは、本来の宮での礼拝よりも商売の巣になっている事の怒りが、イエス様をそうさせたのです。
 そんな中でユダヤ人達はイエス様に対して、「しるしを見せてくれ」と要求しました。それは、イエス様が預言者であると言う証拠を確認しようとしたからです。イエス様はそれに対して、「神殿を壊して、三日で建て直そう。」と語られました。更に、イエス様はヨナの例え以外にはしるしはないと語られました。ヨナが三日三晩、大きな魚の腹の中にいた事、そして三日後に陸地に吐き出された事。これらがイエス様のご復活を現す言葉だったのです。キリスト教の真髄が正にイエス様の十字架と復活にあるのです。
 イエスが行われたしるしを見た多くの人はイエスを信じましたが、イエス様は、彼らに証言を得ようとはされませんでした。それは彼らの心のうちをご存じで、しるしを見たから信じた人達であり、もし彼らの証言を聞くなら、イエスをただのスーパーマン位にしか証言出来ない事を知っておられたからなのです。
 私達はどうでしょう。イエス様の証人として信仰の受肉がなされているでしょうか。更なる信仰のステップアップを踏ませて頂きましょう。(要旨)

2017年3月5日日曜日

先週(2/26)の講壇


神の偉大な力の中にある教会」     エペソ人への手紙11523

 豊山 カヨ 牧師
 
 本文はパウロがエペソの聖徒たちの信仰とすべての聖徒に対する愛とを聞いて、神様に感謝を込めて切に祈る祈りとなっています。真実な祈りはその魂の為に切なる祈りによって証明されます。真実な祈りの中に神様に対する愛をも含んでいます。
 パウロはエペソの聖徒たちに対する感謝に続いて神が目を開き、悟らせて下さるように、そして神を知る為の「知恵と啓示の御霊」を与えて下さるように祈ります。この「知る」というのは経験的に知ることを意味します。主から悟りが与えられなければ私たちは決して知ることは出来ません。そして続けて祈った事はこの知識が更に成長して行く事でした。
 私たちが感覚では完全に知ることのできない霊的世界のあらゆる勢力と力と影響力がみなキリストの内に置かれています。そのキリストが満ちあふれているところこれが教会の霊的実体です。神の偉大な力の中にある教会である訳です。
 信じるものに働く神の力がどれ程偉大なものであるかを知ることに団結して歩める共同体でありますよう願っています。パウロは神が約束された豊かさに焦点を合わせて生きるようチヤレンジを与えます。私たちの信仰告白と生き方の姿勢をふりかえってみましょう。(要旨)

2017年3月1日水曜日

《3月度聖句》


ホサナ、祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエル王に。

 

ヨハネの福音書1213節

2017年2月26日日曜日

先週(2/19)の講壇


「神の御業の為に用いられた人々」                 列王記第二 5章1~14節

                                                                                                                        綾  康輔 牧師
 
 アラムの王ベン・ハダデの右腕として、かつてのアラムに勝利をもたらした将軍ナアマンは勇士ではあったが、ツァラアトに冒されていました。これは、ナアマンだけの問題ではなくアラムの王ベン・ハダデとしても大きな痛手でした。それは、いつ戦争が起こるか分からない状況の中で、ナアマン将軍がツァラアトに冒されていたので、決して他人事ではありませんでした。
 ナアマンの癒しを切に願っていた王は、イスラエルから捕虜としてナアマンの妻に仕えていた若い女から、「サマリヤにいる預言者ならご主人のツァラアトが癒される。」と言う情報を伝え聞き、ナアマンをその預言者の所に送り、贈り物と手紙をイスラエルの王に送ったのです。
 そして、ナアマンは預言者エリシャの所に来たのですが、エリシャが直接ナアマンに会って手を置いて祈るのではなく、使いをよこして「ヨルダン川で七度身を洗うように。」と言う伝言だけを聞き、憤慨して帰途につこうとしました。そこで、ナアマンの付き人のしもべ達はナアマン将軍が癒されて欲しい一心で引き留めようとします。それによって、ナアマンは預言者エリシャの言う通りに行って、癒しを受けたのです。
 この様にして、ナアマンの癒しの為に用いられた人達は無名の人達でしたが、神様の御業の為に用いられたのです。
 私達も同じ様に、無名の人ではあるかもしれませんが、神様は確かにご自身の御業の為に私達を造られ、そして今も生かして下さっているのです。神様の御業の為に、またキリストのからだを建て上げる為にこの世から集められたお互い一人一人なのです。(要旨)