2017年5月21日日曜日

先週(5/14)の講壇

 
エバに見る母像」              創世記21824

 綾 康輔 牧師

 今日は母の日礼拝として人類初の母となったエバを通して見ていきます。エバはそもそもアダムの助け手として造られました。そして、アダムと夫婦の関係を通してカインと言う息子を産みます。人類初の母となったのです。
 それは、アダムのあばら骨から造られました。それは、神様の御心の中で造られました。アダムは「私の骨からの骨。私の肉からの肉」と絶賛しました。
 そして、ここで神様が夫婦と言うものを制定されたのです。そして、それを通して子孫が増え広がって行くのです。母は偉大な存在です。それは、子どもを生きるか死ぬかの戦いに末に産みだし、その後も子育てで大きな苦労をします。また、反抗期、受験、結婚と子どもの為に色々な悩みを持つのです。
 今日、母の日礼拝を通して、母に対する感謝の気持ちを現していく事が出来ればどれ程幸いでしょうか。知恵の王であったソロモンも、「あなたの父母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。」と記録しました。それは、神様の御心にかなっているからです。(要約)

2017年5月14日日曜日

先週(5/7)の講壇



創造に現わされた神の愛」          創世記12631

 綾 康輔 牧師
 
 神様は人を造ろうとされた時、三位一体の神様に似せて造る事をご計画されました。それは、姿形が似ているのではなく、霊的な存在として造ろうと言う事でした。それは、神様と交わりが出来る様に神様と同じ霊的な存在として造られたのです。そして、神様は人が増え広がる様に、男と女とに分けて造られました。それはキリストと教会の関係を象徴したものであると御言葉は強調します。その関係が夫婦に例えられているのです。夫婦の関係を通しても愛を学ぶ事が出来ます。
 更に神様は人を全ての生き物を支配する権威を与えられました。そして、人がそれらの管理者として歩む事が出来る様に、植物と木の実を備えられました。今考えると、自然食品としてこだわりを持つ人がありますが、正に神様は動物性油ではなく、菜食を備えて下さっていたのです。
 その様にして神様は人が霊を持った存在として、神様と交わりが出来る様にして下さり、それだけではなく人が全ての生き物を支配出来る様に、必要なものを備えて下さったのです。聖書の初めから、聖書の終りまで、私達人間に愛を注ぐお方として一貫して記録されています。この様にして私達は神様から愛を受けているのです。今日から始まる一週間も、それを体験出来る一週間となります様に。(要約)

2017年5月7日日曜日

先週(4/30)の講壇


二つのものを一つに」             エペソ人への手紙21122

 豊山 カヨ 牧師

 パウロは牢獄の中で祈り教会を通して現される神様の栄光と、信じてクリスチャンになる事の素晴らしさ、またその一人一人が教会となる事と、神様の驚く程の計画がある事を知らされエペソに手紙を書きました。この手紙が書かれた当時ユダヤ人は、異邦人は神様の約束の契約から除外された人だと思っていました。自分達だけが神様に選ばれた神の民だと思っていたのです。それでユダヤ人達は異邦人達に無割礼の人達と言って判断し差別していたのです。
 パウロはこの事は正しくない事だとあらわにします。この世の基準によって他の人を評価し差別してはいけない事だと言っているのです。神様はイエス様を送って下さりユダヤ人と異邦人の間にあった敵対感と差別の隔ての壁を破壊されました。達異邦人は神様の愛によってキリストの十字架を通して人の手によらずいをけ、契約るようになりユダヤつになったのです。そして二つのものを一つとし平和にされました。
 お互いに愛し合う事、赦し合う、一つとなって集まる事は御霊の働きであり、十字架による神様のお働きです。サタンの最もよく用いる武器は不和です。平和を壊し平和をもたらす人ではなく不和をもたらす人にならせるのです。もめ合ったり、分裂させたり赦せなかったりする訳です。私達は分別の目が開かれなかったら騙され続ける人生を歩むしかありません。
 このエペソ人への手紙が書かれた時はユダヤ人と異邦人が一つとなる事でした。今は家庭が、教会が一つとなる事、それぞれの心の深い所にこの事が起こる事です。人を裁き、分裂や憎しみを持ったまま一生涯を送る訳にはいきません。古い自分は十字架で死に復活の力によって多くの人を抱き、イエス様のいのちによって生きる人だけがどのような状況にいる人とも一つになれるピースメーカーになれます。この事が私達一人一人になりますように。(要約)

2017年5月2日火曜日

《5月度聖句》


神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、
男と女とに彼らを創造された。          <創世記127>

2017年4月30日日曜日

先週(4/23)の講壇


霊的な目が開かれる為に」            ルカの福音書242731

 綾 康輔 牧師

 ご復活の主に会った弟子達は、それがイエスであるとは気が付きませんでした。その様な彼らをご覧になられたイエスは、御言葉からご自身に関する事を話されたのです。また、弟子達と食事をされた時にパンを取り祝福して、割いて渡されました。それは正に「最後の晩餐」、「五つのパンと二匹の魚」を思い出させるさりげない行為でした。
 それらのイエスのさりげない行動により、弟子達はイエスであると気が付いたのです。それは、イエス様が決して無理矢理に導かれるお方ではなく、さりげない中にも弟子達が霊的な覆いが取り除けられるような方法でなされたのです。
 そして、霊的な目が開かれた時イエス様の姿が見えなくなったのです。それは、復活直後に弟子達のいた家に、扉が閉じている状態で入られた事を思い起こす行動でした。それは、復活の主が時間と空間を超越されているお方である事を示しています。また、イエス様がこの世を去っていく事で、もう一人の助け主である聖霊様が遣わされると言う御言葉が成就するためでもあったのです。

復活の体の主は、その様な時間や空間に支配されてはいません。私達も、やがて朽ちない栄光の体に変えられる時が来るのです。そして、その時が来るまでは、有限の体を着て歩み続けるしかないのです。それまでに更に霊の目が開かれる様に主は今日も導かれます。(要約)

2017年4月27日木曜日

先週(4/16)の講壇


イースター&永眠記念者記念礼拝
 
復活のもたらす逆転劇」  ヨハネの福音書20916

 綾 康輔 牧師
 
イエス様が甦る事は旧約聖書の中でも記録されています。そして、新約聖書に至ってもそれは語り継がれています。その中でもイエス様に付き従った弟子達は、イエス様のご復活の預言の御言葉を心底信じる事が出来ないでいました。それは、弟子達だけではなくマグダラのマリヤも同じでした。
 彼らは霊的な覆いが掛かっていたので、復活の主に会ってもそれとは分からなかったのです。しかし、そんなマリヤにイエス様は「マリヤ。」と声をお掛けになると、ようやくマリヤは復活の主である事に気が付きます。
 この様に、聖書の御言葉を読んではいても、真の意味で信じる事が出来るのは、人の知恵や努力では出来るものではないのです。御霊によって記録された聖書の御言葉は、御霊によってでしか真の意味での信仰は生まれないのです。
 また、イエス様は眠った者の初穂として、死を打ち破り甦られたのです。それ故に、私達もやがて甦らされる恵みに預かる事が出来るのです。先に永眠された家族、親族、友人、知人にも再会出来る希望が与えられているのです。この希望を持って、地上での寂しさを克服していきたいものです。(要約)

2017年4月16日日曜日

先週(4/9)の講壇


御言葉の成就の集大成」              ヨハネの福音書192630

 綾 康輔 牧師

 イエス様は十字架での御業を成し遂げられる時、語られた御言葉が七つあります。その中で、幾つかの語られた御言葉を見ていきます。まず、甥であるヨハネに対してご自身の母であるマリヤを引き取る様にされました。それは、夫を早くに亡くした母を一人残していくには心痛かったからです。そこに、「あなたの父と母を敬え。」と言う律法を守ろうとしたイエス様の人の子としての姿が現されているのです。     
 また、最後の晩餐を終えてから、逮捕、明け方前の裁判、鞭打ちの刑、重い十字架を担いでのゴルゴタへの道。それらを歩まれたイエス様は「渇き」を覚えられました。それは、罪を犯す事以外は私達人間と同じご性質を持って歩まれた、人の子としての姿が映し出されているのです。そして、この時に「私が渇いた時に…酢を飲ませました。」と言う預言が成就したのです。
 最後に、イエス様は十字架上で息を引き取る時、父なる神様に「霊をお渡し」になられました。これは、「ちりはもとあった地に帰り…霊はこれを下さった神に帰る。」と言う預言が成就したのです。この様にイエス様の十字架の御業は、神様の預言の御言葉が成就する事の集大成であったと言えるのです。その事故に私達は救いを受け、神様の子どもとしての特権を得る事が出来たのです。今日から始まる受難週が、更に主の御苦しみを覚え、来週のイースターを迎えたいものです。(要約)

2017年4月9日日曜日

先週(4/2)の講壇

「さじを投げたピラト」    ヨハネの福音書19章9~16節

 綾 康輔 牧師
 
 いよいよ十字架を目前にして、総督ピラトの元で裁判を受ける事になったイエス様は、「あなたはどこの人ですか。」と言うピラトの審問に対して沈黙されました。それは、既にイエス様が王であり、真理の証しをする為であると語っていたからです。
 更にピラトはイエス様に対して「自分にはあなたを釈放する権威も、十字架に付ける権威もある。」と豪語します。それに対しては沈黙されていたイエス様も、「それが上(父なる神)からの者でなければわたしにはなんの効力もない。」と言う様な事を語られました。それを聞いたピラトはイエス様が王であり神の子である事を悟りイエス様を釈放しようと努力します。
 しかし、その後祭司長達の言葉、「カイザルの他に王はいない。」と言う言葉を聞き、ピラトはもう足も手も出なくなってしまったのです。ピラトはカイザルの元から派遣されている身であったからです。その様にしてピラトは裁判を終え、祭司長、群衆達にイエス様を引き渡したのです。
 ピラトの前にカイザルはとても大きな存在だったので、カイザルに背く様な事は出来なかったのです。でも、それがイエス様の十字架の刑を確実なものとする契機となったのです。全ては私達人類すべての過去・現在・未来の罪を背負って死んで下さったのです。そして、死んで終わったのではなく死を打ち破り、蘇られたのです。来週は受難週に入ります。更に主の御業を覚えて一週間を過ごしたいと思います。(要約)

2017年4月2日日曜日

先週(3/26)の講壇


死んだ者からよみがえらされた者へ」          エペソ人への手紙2110

 豊山 カヨ 牧師

 1章は、贖いに対する賛美と霊的成長の為のパウロの祈りでしたが、2章はクリスチャンの地位について書かれています。神様との関係は私達の地位を決定します。救いが私達にもたらした本質的変化は、新しい私達の地位です。私達は今や神の国の市民であり、神の家族の一員となりました。パウロは一個人としての、また、共同体の一員としての私達の新しい地位について説明します。
 クリスチャンは過去と現在がはっきり区別された人々です。パウロは救いを受ける前の私達の過去の姿に対して、自分の罪過と罪との中に死んでいた者であったと言っています。この世の価値と方式に従って歩み、また、サタンの影響力の下にいて、その結果として怒りを受けるべき子らでした。神様の裁きを受けるしかない悲惨な立場にいたわけです。
 しかし、神様の愛と哀れみによって御子イエス様の十字架の犠牲を通して救いの道を開いてくださったのです。私達は新しく造られたものです。私達をキリストと共に生かし、イエス様と共に甦らせ、共に天の所に座らせて下さいました。クリスチャンはキリスト·イエスにあって良い行いをする為に造られた神様の作品です。今の時代だけではなく、後に来る世代にも主ご自身の豊かな恵みを現したいと願っておられる事です。私達が創られた目的を覚えつつ、その事に相応しい歩みが出来ます様に。(要約)

2017年4月1日土曜日

《4月度聖句》


私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。   

<テサロニケ人への手紙第一414>