2024年3月19日火曜日

先週(3/17)の講壇

不当な裁判を通して」 マタイの福音書26章57〜65節

 イエス様が父なる神様の御心である苦い杯を受けるべく不当な裁判が繰り広げられました。ちょうどしゅうとから大祭司としてのバトンを受けたカヤパが諮問する事になったのです。
 カヤパはイエス様に対する並々ならない敵対心と反抗心に満ちた人物でイエス様が十字架に進むための最適な人物だったのです。一見すると不当な裁判を起こしイエス様を十字架にかける大きな引き金になったカヤパはただの悪人としか見えません。しかしその悪が皮肉にも用いられたのです。
 ユダと言いカヤパと言い神様のご計画の中にはこの様な悪人も用いられるのです。私達の考えを遥かに超えたところに神様のご計画と摂理があるのです。その中で私達は神様の守りと助けを通して歩んでいく事が出来るのです。(要約)

2024年3月16日土曜日

先週(3/10)の講壇

最後の準備の祈り」 マタイの福音書26章36〜45節

 十字架の御業を目前にしてイエス様はゲツセマネ(油を絞るの意)の園にて激しい霊的戦いの祈りをされました。それは父なる神様から見放され裁かれると言うそれこそ身も心も引き裂かれる痛みだったのです。
 弟子達を連れて祈りに入られましたが弟子達はイエス様の心境を悟る事もなく眠りに就いていたのです。しかしイエス様はそんな彼らの肉体の弱さは十分に理解されていました。
 3度の祈りを終えてイエス様は弟子達に捕えられて十字架に架かられる時が来た事をお伝えになられたのです。それは十字架の目前の最後の激しい祈りであり、父なる神様の御心を成し遂げようとされるイエス様の並々ならぬ決意の時だったのです。(要約)

2024年3月13日水曜日

先週(3/3)の講壇

複雑な思いの晩餐」 マタイの福音書26章20〜28節

 父なる神様の御心でありイエス様にとっては苦い杯である十字架を直前にイエス様は弟子達と最後の晩餐の時を持ちました。それはイエス様が兼ねてから待ち望んでいた時でした。
 しかしその食事の席はイエス様の十字架と共にその場に裏切り者がいる事を伝えなければならない複雑な思いでした。また十字架は神と人間の和解のためのものでもあったのです。
 十字架によって救われた私達は、その和解のつとめを任せられた一人一人なのです。まだ神と和解していないヴィップのためにその役割を全うさせて頂こうではありませんか!(要約)

2024年2月28日水曜日

先週(2/25)の講壇

恵みと権威」 マタイの福音書20章20〜28節

 本文は、神様の聖なる民として歩むことが出来ない存在である人間が、どのように人間が神様の民となり、守られ、エルサレムの町で生きる事が出来るかと言う質問です。
 私たちの何かによるものではなく神の一方的な恵みにより救われ、聖霊の働きにより弱い人間が強められ神様の働きを担うことが出来ます。「あなたがわたしの道に歩み、」「わたしの戒めを守るなら、」「道」とは歩んで行く中での態度や姿勢、品性を言います。日々語られる御言葉に従っていくことです。恵みを受けた者として当然このようにすることです。
 反面「戒め」とは働きのことです。ほんの小さい事に忠実である時、町を支配する者になる。このゼカリヤ書の背景となっている天の法廷に思い通りに行き来することが出来る権威です。この地だけではなく天の御座をも動かす霊的権威が与えられます。なんと素晴らしい事でしょう!(要約)

先週(2/18)の講壇

仕える事とは」 マタイの福音書20章20〜28節

 ゼベダイの妻とその二人の子ども、ヨハネとヤコブはイエス様のところに出て行きお願いをしようと思いました。それをご覧になられたイエス様はご存知ではありましたが彼らに願うことは何かと問われました。
 ゼベダイの妻は、「イエス様が御国に着く時に息子達をイエス様の両脇に座らせて下さい。」と言うものでした。イエス様は彼らに対して、「それは私が決めるのではなく父が決める事だ。」と言われました。
 それ以上に彼らが仕える事を学ぶ様に語られたのです。私達もお互いに仕え合う事が求められています。それを通してヴィップに証しとなるのです。(要約)

先週(2/11)の講壇

喜ばれる信仰」 ヨハネの福音書11章38〜45節

 マルタ、マリアの兄弟ラザロは病気で臨終を迎えました。イエス様はその状況を知りながらもその場には居合わせなかったのです。
 ラザロの死後四日目にようやく葬られたラザロの元に来られました。そして、皆は悲しみの中にいましたがイエス様は彼らをご覧になって霊に憤りを覚えられました。
 イエス様は彼らに、「わたしを信じるなら神の栄光を見る」と言っていた事を想起させました。そして、イエス様は彼らに信仰が主を喜ばせる事の出来る方法であると強調されたのです。私達も与えられた信仰が成長する様に、主は願っておられるのです。(要約)

2024年2月7日水曜日

先週(2/4)の講壇

土台しっかりしてますか?」 マタイの福音書7章24〜29節

 イエス様は引き続き例え話を用いて語られました。岩の上に家を建てた賢い人と、砂の上に家を建てた愚かな人との比較だったのです。
 それはとりもなおさず御言葉を聞いてもそれを行うかそうでないかを表していたのです。私達はとかく耳障りの良い御言葉を求めがちです。それは、正に砂の上に家を建てた愚かな人と同じと言う事です。
 ヤコブが強調していた様に、信仰がありながら御言葉を行わない事は死んだも同然の事なのです。聖霊様の助けと導きを頂き、御言葉を行う岩に家を建てた賢い歩みをお互いにしていきたいものです。(要約)

2024年1月31日水曜日

先週(1/28)の講壇

わたしは新しいことを行う」 ヨハネの福音書1章14節,イザヤ書43章18-19節

 ヨハネの福音書は旧約が終わり四百年という長い闇と言うべき時間が過ぎて神様の新しい御業が始まるという話であります。イエスキリストと言う神が人となってこの世に来られるという全然予想もしなかった新しい事が起きたわけです。
 この言葉は成し遂げられるという事です。新約時代の働きです。私達を日々新たにします。これは神様の働きです。私達が何かをする事ではないのです。しかし、その準備は私達がしなければなりません。
 どの様な心構えが必要でしょうか?霊的な事に集中し、以前のことは覚えない事、聖霊に敏感になることです。そして、神様の御言葉が臨むように飢え乾きを持つ事なのです。新しい事をされる主に期待しつつ与えられるまで求め続ける今年一年となります様に。(要約)

2024年1月24日水曜日

先週(1/21)の講壇

感謝を基礎にした愛」 マタイの福音書5章43〜48節

 私達は敵を愛しその敵のために祈ると言う事は到底無理なことの様に写ります。しかしイエス様はそれを完璧になされたお方でした。
 私達はそのイエス様の歩みに倣っていく必要があります。勿論、イエス様の様な完璧な者になる事は出来ませんが、少なくてもイエス様に倣いたいと言う思いは持つ事が出来るのです。
 更にイエス様が与えて下さる愛に立ち返る時に、私達の背中を押す助けとなるのです。そして、それプラス聖霊様が力と助けを与えて下さるのです。(要約)

先週(1/14)の講壇

全ては主のご栄光のため」 マタイの福音書5章13〜16節

 山上の垂訓で更に強調されたのが、キリストを信じ聖霊によって導かれる歩みをする者は、「地の塩、世の光」としての歩みが求められると言う事。

 それは、「塩」の様に塩味の効いた言葉で平和を作り上げていく歩みであり、「光」の様に能動的にこの世の闇を照らしていく歩みであると言う事です。
 そして、それらの全てを通して主のご栄光が表される事を願っておられると言う事です。それらの歩みには古い肉の性質では出来ませんが、聖霊様によって導かれ、力を頂いた者は成し遂げる事が出来るのです。(要約)