2017年2月26日日曜日

先週(2/19)の講壇


「神の御業の為に用いられた人々」                 列王記第二 5章1~14節

                                                                                                                        綾  康輔 牧師
 
 アラムの王ベン・ハダデの右腕として、かつてのアラムに勝利をもたらした将軍ナアマンは勇士ではあったが、ツァラアトに冒されていました。これは、ナアマンだけの問題ではなくアラムの王ベン・ハダデとしても大きな痛手でした。それは、いつ戦争が起こるか分からない状況の中で、ナアマン将軍がツァラアトに冒されていたので、決して他人事ではありませんでした。
 ナアマンの癒しを切に願っていた王は、イスラエルから捕虜としてナアマンの妻に仕えていた若い女から、「サマリヤにいる預言者ならご主人のツァラアトが癒される。」と言う情報を伝え聞き、ナアマンをその預言者の所に送り、贈り物と手紙をイスラエルの王に送ったのです。
 そして、ナアマンは預言者エリシャの所に来たのですが、エリシャが直接ナアマンに会って手を置いて祈るのではなく、使いをよこして「ヨルダン川で七度身を洗うように。」と言う伝言だけを聞き、憤慨して帰途につこうとしました。そこで、ナアマンの付き人のしもべ達はナアマン将軍が癒されて欲しい一心で引き留めようとします。それによって、ナアマンは預言者エリシャの言う通りに行って、癒しを受けたのです。
 この様にして、ナアマンの癒しの為に用いられた人達は無名の人達でしたが、神様の御業の為に用いられたのです。
 私達も同じ様に、無名の人ではあるかもしれませんが、神様は確かにご自身の御業の為に私達を造られ、そして今も生かして下さっているのです。神様の御業の為に、またキリストのからだを建て上げる為にこの世から集められたお互い一人一人なのです。(要旨)