2009年9月17日木曜日

【証し】 死の恐れから救われて(城谷定利牧師)

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイの福音書11:28)

わたしが生まれて初めて、キリスト教会に導かれたのは、1964年9月22日でした。会社の帰途、駅前の路傍で配られていた一枚の特別伝道集会の案内に よってでありました。当時25歳でしたが、人生に何の希望も持っていませんでした。自分の性格の暗さに悩み、人と順応して生活できず、いつも孤独でした。 その上、死の恐れにとらわれながらも幾度か自殺したい気持ちになったこともあります。しかし、死にきれず、そうかといって生きることもつらい毎日でした。
そのような状況から抜け出たいとある時は仕事に打ち込み、読書やまた、パチンコや快楽などで生きがいを見いだそうと努めましたが、道は開かれませんでし た。当時、私の抱いていた宗教観は、自分も弱いくせに、「宗教など、人生に敗れたものがするものだ」というものでした。そして、何かを信仰している人を見 ると、見下げた思いを持っていました。
 しかし、私の心は、何かに救われたい、何かに頼りたい、という気持ちでいっぱいでした。一枚のチラシを便りに、恐る恐る教会に足を運んだのです。それまで の教会のイメージは、静かで上品で清い生活をしている人だけが、集まる場と思っていましたから、とても敷居が高く、私とは関係のない所だと思っていまし た。ところが、教会に入り、青年たちが「ただ信ぜよ、ただ信ぜよ、信ずるものはたれもみな救われれん」(聖歌424番)と元気よく歌っているのを見て、そ のようなイメージは吹き飛んでしまい、いつしか自分も一緒に歌っているのでした。メッセージの内容は忘れましたが、冒頭の聖句と「ただ信ぜよ」の歌が印象 に残りました。決心者を募られたので、わらをもつかむ思い出手を上げ、前に出て、主イエス様を信じて心の中に受け入れました。
死の問題については、少し時間がかかりましたが、教会に通ううちにイエス様が私の罪の身代わりとなり、十字架で死に、3日目によみがえって、私の罪と死の 問題を解決してくださったことを悟ることができました。そして、いつしか、死の恐れが完全に私の心の内から消え去っていたのです。今では、主イエス様が再 び来られる時、生きていても、また、死んでいても間違いなく、新しい天と新しい地に迎え入れてくださることを確信し、平安のうちに過ごしています。