2025年10月13日月曜日

先週(10/12)の講壇

「意外な神の摂理」 

ヨハネの福音書13章21〜30

 銀貨三十枚でイエス様を売り渡す時が来たのです。そしていよいよ律法学者、パリサイ派の人たち、長老達によってイエス様の十字架の御業へと急ピッチで進んでいくのです。
 人間的に見るならサタンの思う壺と思えますが、これも神様の人類救出のご計画の一部だったのです。この様にして私達の見る目と神様の摂理は大きなギャップがある時が多いものです。私達の歩みの中でも理解出来ない事が多々起きてきますが、そこにも同様に神様の摂理があるのです。(要約)

2025年10月8日水曜日

先週(10/5)の講壇

「互いに仕え合う」 

ヨハネの福音書13章4〜15

 それを見かねたペテロは「決して私の足を洗わないで下さい。」と遠慮していました。しかしイエス様はそのままさせてくれと言い、「もし洗わないのならわたしとあなたは何の関係もない。」と言われました。そうするとペテロは手も頭も洗ってくれと言いました。
 イエス様は弟子達にその様にお互いに仕え合う事を教えるために自らが模範を見せて下さったのです。私達もお互いに仕え合うい時に主のくすしい御業が現されるのです。(要約)

先週(9/28)の講壇

「霊は霊によって分別される」 

コリント人への手紙第一2章13〜15

 問題は霊的な事は霊によって理解し説明できるという事です。魂や肉体では説明できません。魂と肉が働くクロノスの時空間がある様に霊が働くカイロスの時間と空間があります。これは完全に分離されています。だから霊的歩みをする為に信仰が必須なのです。聖霊が臨まれる歩みをする事です。道徳、倫理もその基礎は霊にあります。
 何が良きで何が悪であるのかは霊的な人が判断出来ます。倫理、道徳と言うのは時の流れによって変わっていき、時間だけではなく地域、国によっても変わります。(要約)

2025年9月22日月曜日

先週(9/21)の講壇

「天の父に重んじられる歩み」 

ヨハネの福音書12章20〜26

 そこでイエス様は十字架の予告をされました。それは「一粒の麦」に例えて語られたのです。イエス様ご自身が「一粒の麦」として十字架で死なれる事によって多くの実が結ばれるのです。
 更には自らの命を愛する者はそれを失うが、自分の命を憎む者は永遠の命に至る事を語られました。主につける者は父がその人を重んじて下さると言うのです。逆説的な事ですが霊の世界ではその様な原理なのです。(要約)

2025年9月14日日曜日

先週(9/14)の講壇

「不平か感謝か!?」 

ヨハネの福音書12章1〜8

 それを見ていたイスカリオテのユダはマリアに対して批判の声を浴びせます。その様な高価な香油があれば多くの人達に施しが出来たではないかと言う主張でした。
 しかし、ユダは心の中では施しと言う事はひとかけらもありませんでした。マリアのした事が妬ましく気に障ったからでした。そしてイエスが十字架で死刑になる事が分かるとユダはイエスを銀貨三十枚で売った事を後悔して自らの命を絶ったのです。この様にしてマリアとユダは両極端な末路を辿ったのです。(要約)

2025年9月7日日曜日

先週(9/7)の講壇


「サタンの恐れと誤算」 

ヨハネの福音書11章46〜53

 そして、着々と彼らを用いてイエスを十字架につける運びとなっていったのです。しかし、それはサタンの誤算だけではなく神様の人類救出のご計画と一致していたのです。
 これは神様の大きなご計画の中である意味でサタンにその様な機会を許したとも見えるのです。その様にしてまで神様はご自身の救いのご計画を成し遂げようとされそれを実現に至らしめたのです。(要約)

先週(8/31)の講壇

「霊的戦い」 

ルカの福音書11章36,40〜41

 ⑤施しに用いる事:全然違う霊的話をしていたのに急に施しなさいと言います。施しは私達が考えているのとは違うという事です。この世を象徴するのはお金です。私達が誰かに分け与える時、肉体が一番渇望するそれを与える行為は単純に自分が持っている物をあげたという取引と言う行為ではなく、私達の内側にある渇望が共に消えていくのです。
 施しをすると心がきよくなります。執着していたことから解放されます。救済をすると私たちの霊が目覚めて、透明になります。今週もまた経験できますように。(要約)

2025年8月26日火曜日

先週(8/24)の講壇

「憤りを覚えるイエス」 

ヨハネの福音書11章32〜42

 彼らの心にある不信仰を見て嘆かれたのです。その前にイエス様は「信じるなら神の栄光を見る。」と明らかにされていたからです。彼らはイエス様の語る御言葉を信じる事が出来ずにいたのです。
 私達も御言葉が信じられない事が多いと思います。しかし、神様がなされる魂の救いと言う「奇蹟」を体験しているのです。正に聖書に登場してくる「奇蹟」そのものです。それ故に他の奇蹟をも体験する事が出来るのです。(要約)

先週(8/17)の講壇

「霊的戦い」 

ルカの福音書11章8〜14、20〜22、34〜36

 聞くのはその霊的環境の中に入ることですが、見るのは霊的門を開きます。聖書は、自分の体の明かりは目だと言っています。霊に対する象徴です。だから見ることを注意することです。「個人的においてのさらなる具体的な戦い」と言えます。③話すこと:これは祈りです。
 さらに強い方、聖霊様が来られる時、霊的戦いに勝つことが出来ます。この語ることを通して私たちが霊的戦いをするようになります。霊の世界で語る言葉には力があります。私たちは肯定的な言葉を言いましょう!(要約)

2025年8月11日月曜日

先週(8/10)の講壇

「イエスの神性」 

ヨハネの福音書10章31〜38

 そこでイエスは自らが父なる神の御心を行っている事を強調されました。そして父なる神とイエスが三位一体の主である事を明らかにされたのです。
 この様にしてイエスを偉人の一人くらいにしか思えない人は救いから遠ざかっていると言えるのです。そこで聖霊様の助けと導きによってイエスが救い主であると信じる様にして頂く必要があるのです。(要約)