「父が子を憐れむように」 詩篇103篇13節
綾 康輔 牧師
今日は年に一度の「父の日」の礼拝です。母の日に比べて影の薄い日でありますが、決して忘れられてはならない日でもあります。それは、聖書の中では神様が「父」として描写されていることが多いからです。放蕩息子で有名な父親も、父なる神様の姿を映し出しています。
また、父親は子どもを憐れむ存在であると、今日の本文で語っています。それは、ちょうど父なる神様が私達、子ども達を憐れんで下さるのとまったく同じ事であると強調します。そして、聖書の中に表現されている、「憐れむ」と言う言葉は、一般的に使われる、「ただ単に可哀想に思う」とか、「同情する」と言う“上から目線”ではなく、“愛おしく思う”、“親切や愛を施す”と言うニュアンスが強いものです。その父なる神様は、私たちを憐れみ育んで下さいます。それは、時に、「試練」と言う名の厳しい教育方法かもしれません。しかし、神様はそのようにして私たちを神様の願っておられる子ども達へと造り変えて下さるのです。(要旨)