2024年10月21日月曜日

先週(10/20)の講壇


「旧約時代におけるくじの役割」 

ヨシュア記7章10〜18


 ユダ部族に属するアカンはエリコの町の聖絶の物の一部を盗み隠したのです。これは明らかに神様の定められた律法に反する罪でした。これによって神様の怒りがイスラエルに向けられたのです。
 神様はヨシュアに対し、その罪を犯した人物を取り分けるためにくじをする様に命じられました。そして、見事にくじによってアカンが取り分けられたのです。
 旧約時代にはこの様にしてくじによって神様の御心を知る重要なツールだったのです。今を生かされている新約時代はくじも用いられる場合もありますが、今は神様の御心がぎっしり詰まっている聖書の御言葉があるので聖霊様は御言葉をもって示して下さるのです。(要約)

先週(10/13)の講壇

「見える世界と見えない世界」 

コリント人への手紙第二4章18


 聖書は二つの世界があると言っています。見える世界と見えない世界です。神様を知らない人達は見えるものが全てだと思うのです。クリスチャンの土台となる信仰は、見える世界が全部ではなく、見えない世界があるのです。

2024年10月7日月曜日

先週(10/6)の講壇

「従順と言う引き金」 

ヨシュア記3章14〜17


 神様の約束の地カナンを目の前に氾濫しそうなヨルダン川が道を遮りましたが、主はその様なヨルダン川の間に(せき)を作り塩の海へ流れる水を完全に堰き止められたのです。
 そしてイスラエルの民達は乾いた地を歩きヨルダン川を渡り切る事が出来たのです。勿論、神様のご計画の中にあった事ですがそこには、祭司達の「従順」があったのです。
 そして祭司達が従順な態度で進み出てヨルダン川に足を踏み入れる事が出来たのは神様に対する信仰と共に、モーセをはじめヨシュアの主に対する従順な歩みを見て来たからなのです。私達も主が喜ばれる主に対する従順な歩みをさせて頂きましょう。(要約)

2024年10月4日金曜日

先週(9/29)の講壇

「無感覚と無気力と無関心」 

ゼカリヤ書4章1〜7


 ゼカリヤの眠りから覚まされた様子を通して無気力について前回分かち合いましたが本当の福音に触れられる時、どのような形かは分かりませんが現実に打ち勝つ形で現れます。

福音は福音、世は世、教会は教会、仕事は仕事としてそれを分離して考えるなら、合理的なキリスト教にしてしまいます。その時起る事は、無感覚と無気力と無関心です。そうなると、超自然的な事と自然的な事を分けます。可能な事と、不可能な事を分けます。自分が出来る事と、出来ない事を分けます。それで福音で出来る事、自然的な事、可能な事というその中に限定して考えるのです。人間の業となる訳です。 

 目標は良い人になる事ではなく私達を通じて聖霊様がこの地の上に現れ流れていく事です。聖霊様の働きによって自分の力を飛び越す事が出来るのです。(要約)

2024年9月26日木曜日

先週(9/22)の講壇

「モーセの執り成し」 

出エジプト記32章29〜35


 同胞が神様の前に罪を犯し続けている事でモーセは神様の前に執り成すために山に登ったまま降りて来なかった事で民達はアロンに目に見える神を造る様に要請しました。
 彼はあらゆる金を集めて金の仔牛の像を造り民達に与えました。その事が神様の怒りに触れました。神様は怒りを燃やされましたがモーセは再び民達のために神様の前に執りなします。
 それによって神様の怒りが鎮められたのです。私達は人々と神様の間を取り持つモーセの様な執り成しをする存在であるのです。そしてその執り成しを通して神様の御業が表されるのを期待する事が求められているのです。
(要約)

2024年9月19日木曜日

先週(9/15)の講壇

「愛故の十戒」 

出エジプト記20章3〜11


 十戒の中でも最初の部分(1戒〜4)は神様と私達の関係性の中で守るべき戒めが記録されています。残りの5戒〜10戒は私達人間同士の間で守られるべき戒めです。
 1戒〜4戒の神様との関係が正しい時に5戒〜10戒はある意味では簡単な者であると言えます。そして1戒〜4戒は「主」が唯一の神様であり、その主との関係が正しい関係である事を主ご自身が願っておられるのです。
 戒めを見ると一見自由が束縛されている様に思えるのも事実ですが、決してそうではありません。それを守る事で神様が与えようとしている祝福を最大限に受ける事が出来るのです。なぜなら戒めの根本には神様の愛が表されているからなのです。(要約)

2024年9月11日水曜日

先週(9/8)の講壇

「日々必要を満たされる主」 

出エジプト記16章12〜20


 出エジプトしたイスラエルの民達は水が苦い、食べ物がないと不平不満だらけでした。そんな中で主は彼らの声に耳を傾けておられました。
 そして夕方はうずらを送り、朝にはマナを送って下さいました。それを通してイスラエルの民達は体に必要なものを補っていました。食べる分だけを取るように、更には次の日まで残すなとの主の命令がありました。しかし朝まで残しておいたものは腐ってしまったのです。
 これは主から来る恵みはその日その日にあると言う事を確認させるためである事を示す為だったのです。私達も日々の主の恵みを覚えて感謝を捧げましょう。(要約)

2024年9月8日日曜日

先週(9/1)の講壇

「神様の方法で栄光を!」 

出エジプト記14章8〜17


 神様の裁きの中でエジプトに十の災いが降り、イスラエルの民達を解放したファラオ王でしたが、その後に後悔し再び連れ戻す様に軍勢を引き連れて後を追いました。
 それに気づいたイスラエルの民達はモーセに不満をぶつけました。そして、モーセは 既に主から語られていた御言葉を民達に語りつつ主に頼る事を勧め励ましました。
そして、主がお命じになられた通りに葦の海に海の壁が出来、乾いた土地が現れ民達はそこから葦の海を渡る事が出来たのです。その様にして主のご栄光を見たのです。主の方法で主の方法に従う時に主はくすしい御業をなして下さるのです。(要約)

2024年8月27日火曜日

先週(8/25)の講壇


「眠りから覚まされた人のよう」 

ゼカリヤ書4章1〜7


 ゼカリヤ4章は前半の8つの幻の中で5番目です。本文1節を通してまるで眠っている人が眠りから覚める様な話から始まります。この言葉は4章全体のメッセージを含めています。
 ゼカリヤの時代にこの言葉を受けるイスラエルの民のある状態、霊的状況を象徴としているからです。ゼカリヤの眠っている様な姿を通して無気力な、本当に神様の働きを成して行こうとするけれどその様にできない姿を現しています。堕落した人間は、善について義については、徹底的に無気力な存在です。それが脱落した人間の現実です。
 今日も同じように無力な中で霊的に眠ってしまっているような全ての神の民が与える天からの声を聴きましょう。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は言われる。」私達は自分の力では限界があります。徹底して聖霊様に拠らなければなりません。(要約)

先週(8/18)の講壇

「召命を受けたなら・・・」 

出エジプト記3章9〜15


 エジプトで苦役を強いられていた主の選びであるイスラエルの民達に対して主は決して見放してはいませんでした。奇跡の生還を遂げたモーセに主はイスラエル救出の重責を担わせたのです。
 当のモーセは当然理解の出来ない召命に対してひたすら当惑し、主にその旨を正直に打ち明けたのです。しかし、主はそんなモーセをよそに、「わたしがあなたとともにいる。」、「わたしがあなたを遣わす。」と言って主の御心を明らかにしたのです。
 その中でもモーセは不安と恐れの中にいましたが、モーセが弱くても、口下手でも主が遣わすのであって、遣わす主が強ければ全ては事が足りるのです。私達も弱さがありますが主はそんな私たちを用いて事をなそうとしておられるのです。安心して主の召命に従いましょう。主が全ての責任をとって下さるのです。
(要約)