2014年12月7日日曜日

先週(11/30)の講壇


「たとえ話(4)ミナのたとえ」     ルカの福音書191113

  豊山 カヨ 牧師

 ユダヤ人たちはメシヤが来て自分たちを解放し、自由な神の国ダビデの王国を再建してくれることを信じていた。けれど、イエス様は皆が考えているような神の国ではなく、イエス様の置かれている道は苦難の道、十字架の道であり、このことがならない限り神の国は決して来ない事を分からせようとなさったことのたとえです。
 ミナは僕に渡された信仰と考えられます。信仰は神から賜るもので聖霊の促しにより私たちは信じることが出来ます。信仰は神の一方的な恵みの賜物です。十人の僕に一ミナずつ渡して商売をするようにしました。二人の僕は一ミナで十ミナ、五ミナを儲けました。聖霊によって与えられた信仰は皆同じだけれど、それをどのように働かせて受け取っていくか受け取り方はそれぞれ違います。
 信仰に大切なことは神の言葉に従うことです。神の恵みによってすべてを用いて行くこと、それがミナを用いて行くことであり信仰を働かせて行くことです。
 もう一人の人は神の恵みを無視しました。彼は主人を怖い主人だと思いました。恵みではなく刑罰の神として考えているのが三番目の僕の姿であります。イエス様の十字架の働きを無視した形式的な信仰、理屈だけの信仰、頭だけの信仰です。キリストを通して神様の無限の愛を私たちに表したいそれを受けるのが信仰です。
 信仰は恵みによって増し加えられ、持つものはさらに持ち恵みによって働かせない者は持っているつもりでもいつの間にか取り去られています。(要旨)