2025年11月25日火曜日

先週(11/23)の講壇

「感謝の源泉」 

コリント人への手紙第二9章9〜15

 そして主から頂いている「恵み」「賜物」を施しや什一献金と言う形で用いていく時に、更に恵みを受けるだけではなく神様に栄光をお捧げすることにもつながるのです。
 そしてこの世での旅路を終えた時には、御国において更に祝福と恵みに満ちた世界が待っているのです。その希望を胸に抱きながら今のしばしの苦難と逆境の中で主と共に歩む糧としていきましょう。
(要約)

2025年11月19日水曜日

先週(11/16)の講壇

「愛しなさいという戒め」 

ヨハネの福音書15章12〜17

 イエス様が語られたのは「互いに愛し合いなさい」と言うのが「戒め」であると語られました。しかも「わたしがしたように・・・」と言うのです。それが私達にとってどれほどハードルが高いか分かりません。
 しかし「愛」の反対語がしめすように「無関心」でいてはならないとも理解することが出来るのです。そのようにして相手の関心を持ち交わり執り成すことがもう既に愛の関係なのです。
(要約)

2025年11月10日月曜日

先週(11/9)の講壇


「枝としてできること」 

ヨハネの福音書15章1〜11

 それゆえに枝としての私達は木の幹であるイエス様に繋がっていれば良いのです。それは御言葉と祈りによって交わることにあるのです。それが枝として最も自然な事だからです。
 また私達異邦人はイスラエルという純粋なオリーブに接ぎ木された野生のオリーブに例える事もできます。ぶどうの木とオリーブの木で共通点があるとするなら、私達異邦人はイスラエルの平和のために執り成す事なのです。それが城壁の見張り人としての務めなのです。(要約)

先週(11/2)の講壇

「三位一体の神」 

ヨハネの福音書14章26〜31

 助け主なる神様は御子キリストを信じる者のうちに内住して下さり真理を示してくださり、祈りを導いてくださいます。御子キリストは十字架により人類全ての罪を背おい、またこの世にはない平安を与えてくださいます。
 父なる神様は全ての上に存在され、私たちを愛し救うために御子キリストを遣わして下さったのです。これは私達の理性で理解できるものではありませんが、目には見えない神様を信じるための神様の知恵と言う事ができるのです。(要約)

2025年10月27日月曜日

先週(10/26)の講壇

「肉に属する人とは」 

コリント人への手紙第一3章1〜3

 また霊は自分を低くし神様を高くあがめますが肉は反対に自分を高くします。肉は自慢する事を好みます。自分を誇る人自分の事ばかり言っている人は肉的な人です。また子どもの事を自慢する人もそうです。自分の業績や働きを促す人もそうです。
 霊的な人は人々から承認される事や褒められる事を求めず関心もせず、自分を顕にしません。ただ神様だけを崇め喜び、神様が顕にされると嬉しく思うのです。私達は神の宮です。私達を通して神様は豊かに働かれます。皆さんの上にカイロス(ヘブンリータッチ)が起こりますように。(要約)

2025年10月19日日曜日

先週(10/19)の講壇

「見て信じるよりも信仰により見る」 

ヨハネの福音書14章5〜14

 そこでイエス様は「わたしを見たなら父を見たのです。」と語られますが中々信じる事が出来ませんでした。そこでイエス様は「わたしのわざを見て父を信じなさい。」と語られました。
 更に「わたしを信じる者はわたしが行うわざを行う。」と語られました。それはイエス様が昇天される事で聖霊様が降り、主の御業を行うからです。同じ様に私達も様々な出来事の中で信仰の目で見ていく事が必要なのです。
(要約)

2025年10月13日月曜日

先週(10/12)の講壇

「意外な神の摂理」 

ヨハネの福音書13章21〜30

 銀貨三十枚でイエス様を売り渡す時が来たのです。そしていよいよ律法学者、パリサイ派の人たち、長老達によってイエス様の十字架の御業へと急ピッチで進んでいくのです。
 人間的に見るならサタンの思う壺と思えますが、これも神様の人類救出のご計画の一部だったのです。この様にして私達の見る目と神様の摂理は大きなギャップがある時が多いものです。私達の歩みの中でも理解出来ない事が多々起きてきますが、そこにも同様に神様の摂理があるのです。(要約)

2025年10月8日水曜日

先週(10/5)の講壇

「互いに仕え合う」 

ヨハネの福音書13章4〜15

 それを見かねたペテロは「決して私の足を洗わないで下さい。」と遠慮していました。しかしイエス様はそのままさせてくれと言い、「もし洗わないのならわたしとあなたは何の関係もない。」と言われました。そうするとペテロは手も頭も洗ってくれと言いました。
 イエス様は弟子達にその様にお互いに仕え合う事を教えるために自らが模範を見せて下さったのです。私達もお互いに仕え合うい時に主のくすしい御業が現されるのです。(要約)

先週(9/28)の講壇

「霊は霊によって分別される」 

コリント人への手紙第一2章13〜15

 問題は霊的な事は霊によって理解し説明できるという事です。魂や肉体では説明できません。魂と肉が働くクロノスの時空間がある様に霊が働くカイロスの時間と空間があります。これは完全に分離されています。だから霊的歩みをする為に信仰が必須なのです。聖霊が臨まれる歩みをする事です。道徳、倫理もその基礎は霊にあります。
 何が良きで何が悪であるのかは霊的な人が判断出来ます。倫理、道徳と言うのは時の流れによって変わっていき、時間だけではなく地域、国によっても変わります。(要約)

2025年9月22日月曜日

先週(9/21)の講壇

「天の父に重んじられる歩み」 

ヨハネの福音書12章20〜26

 そこでイエス様は十字架の予告をされました。それは「一粒の麦」に例えて語られたのです。イエス様ご自身が「一粒の麦」として十字架で死なれる事によって多くの実が結ばれるのです。
 更には自らの命を愛する者はそれを失うが、自分の命を憎む者は永遠の命に至る事を語られました。主につける者は父がその人を重んじて下さると言うのです。逆説的な事ですが霊の世界ではその様な原理なのです。(要約)