2024年11月19日火曜日

先週(11/17)の講壇

「責めるのではなく赦す」 

ヨハネの福音書8章1〜11


 姦淫の現場で捕えられた女をイエス様の元に連れて来た律法学者、パリサイ人達はイエスを陥れようとしていたのでした。律法では姦淫の罪は石打ちの刑に処するからです。
 そしてイエス様は「罪のない者から石を投げなさい。」と語られました。すると年長者から一人一人去って行き女とイエス様だけが残りました。
 イエス様は女を責めるのではなく赦す事で彼女がもう姦淫の罪を犯さない様に教え諭したのです。罪を赦し救いを与えるお方の方法だったのです。(要約)

2024年11月12日火曜日

先週(11/10)の講壇

「主のご栄光に満ちた姿」 

ルカの福音書9章28〜36


 ペテロとヨハネとヤコブを伴って変貌山と呼ばれるヘルモン山に登られ、そこでイエス様は見事に身姿を変えられたのです。
 そして、モーセとエリヤとイエス様がエルサレムで遂げようとされる最期について語られていたのです。ペテロは思わず、イエス様とモーセ、エリヤに幕屋を三つ作ると語りました。
 そして、天からの声があり「これはわたしの選んだ子、彼の言うことを聞け。」と命じられたのです。栄光の主は神の子であられメシア、救い主なのです。この主の栄光を仰ぎ見つつ歩んで参りましょう!(要約)

先週(11/3)の講壇

「本当にあなたの主になっていますか?」 

マタイの福音書16章13〜20


 ペテロは主に対して「あなたは神の子キリスト」であると信仰告白しました。これは、肉的な思いや考えではなく父なる神様が悟らせて下さった事であると主は語られました。
 教会は正にこの様な信仰告白の上に建てられているのです。そして私達は信仰告白だけではなく、信仰生活の中でそれが生かされていく事が求められているのです。
 知識的に「知る」だけでは不十分なのです。聖書で語られている「知る」と言う言葉は体験的なものも含んだ言葉であるからです。お互いに「主」を主として崇め、その主を体験する事で更に信仰の高嶺へと導かれるお互いとなる様に主は願っておられます。(要約)

2024年10月28日月曜日

先週(10/27)の講壇

「従順の結果」 

ヨシュア記6章13〜21


 ヨシュアと民達はカナンに入ってからの初めての戦いとなるエリコを前にしていました。そして既に主によってエリコの町はヨシュアとイスラエルの手に渡したと約束して下さっていました。
 それゆえに彼らは主の勝利を信じて主の御言葉に従ったのです。しかしその方法は人間的に見るなら愚かな方法に見えたのです。城壁の周りを一日に一度、それを六日間回り最後の七日目は7周回ると言う方法でした。
 イエス様の十字架による救いの方法も愚かと思える方法を通して与えられるものです。主の御言葉に従う時に主の御業はなされるのです。信仰生活の中でもそれを適用して歩みましょう!!(要約)

2024年10月21日月曜日

先週(10/20)の講壇


「旧約時代におけるくじの役割」 

ヨシュア記7章10〜18


 ユダ部族に属するアカンはエリコの町の聖絶の物の一部を盗み隠したのです。これは明らかに神様の定められた律法に反する罪でした。これによって神様の怒りがイスラエルに向けられたのです。
 神様はヨシュアに対し、その罪を犯した人物を取り分けるためにくじをする様に命じられました。そして、見事にくじによってアカンが取り分けられたのです。
 旧約時代にはこの様にしてくじによって神様の御心を知る重要なツールだったのです。今を生かされている新約時代はくじも用いられる場合もありますが、今は神様の御心がぎっしり詰まっている聖書の御言葉があるので聖霊様は御言葉をもって示して下さるのです。(要約)

先週(10/13)の講壇

「見える世界と見えない世界」 

コリント人への手紙第二4章18


 聖書は二つの世界があると言っています。見える世界と見えない世界です。神様を知らない人達は見えるものが全てだと思うのです。クリスチャンの土台となる信仰は、見える世界が全部ではなく、見えない世界があるのです。

2024年10月7日月曜日

先週(10/6)の講壇

「従順と言う引き金」 

ヨシュア記3章14〜17


 神様の約束の地カナンを目の前に氾濫しそうなヨルダン川が道を遮りましたが、主はその様なヨルダン川の間に(せき)を作り塩の海へ流れる水を完全に堰き止められたのです。
 そしてイスラエルの民達は乾いた地を歩きヨルダン川を渡り切る事が出来たのです。勿論、神様のご計画の中にあった事ですがそこには、祭司達の「従順」があったのです。
 そして祭司達が従順な態度で進み出てヨルダン川に足を踏み入れる事が出来たのは神様に対する信仰と共に、モーセをはじめヨシュアの主に対する従順な歩みを見て来たからなのです。私達も主が喜ばれる主に対する従順な歩みをさせて頂きましょう。(要約)

2024年10月4日金曜日

先週(9/29)の講壇

「無感覚と無気力と無関心」 

ゼカリヤ書4章1〜7


 ゼカリヤの眠りから覚まされた様子を通して無気力について前回分かち合いましたが本当の福音に触れられる時、どのような形かは分かりませんが現実に打ち勝つ形で現れます。

福音は福音、世は世、教会は教会、仕事は仕事としてそれを分離して考えるなら、合理的なキリスト教にしてしまいます。その時起る事は、無感覚と無気力と無関心です。そうなると、超自然的な事と自然的な事を分けます。可能な事と、不可能な事を分けます。自分が出来る事と、出来ない事を分けます。それで福音で出来る事、自然的な事、可能な事というその中に限定して考えるのです。人間の業となる訳です。 

 目標は良い人になる事ではなく私達を通じて聖霊様がこの地の上に現れ流れていく事です。聖霊様の働きによって自分の力を飛び越す事が出来るのです。(要約)

2024年9月26日木曜日

先週(9/22)の講壇

「モーセの執り成し」 

出エジプト記32章29〜35


 同胞が神様の前に罪を犯し続けている事でモーセは神様の前に執り成すために山に登ったまま降りて来なかった事で民達はアロンに目に見える神を造る様に要請しました。
 彼はあらゆる金を集めて金の仔牛の像を造り民達に与えました。その事が神様の怒りに触れました。神様は怒りを燃やされましたがモーセは再び民達のために神様の前に執りなします。
 それによって神様の怒りが鎮められたのです。私達は人々と神様の間を取り持つモーセの様な執り成しをする存在であるのです。そしてその執り成しを通して神様の御業が表されるのを期待する事が求められているのです。
(要約)

2024年9月19日木曜日

先週(9/15)の講壇

「愛故の十戒」 

出エジプト記20章3〜11


 十戒の中でも最初の部分(1戒〜4)は神様と私達の関係性の中で守るべき戒めが記録されています。残りの5戒〜10戒は私達人間同士の間で守られるべき戒めです。
 1戒〜4戒の神様との関係が正しい時に5戒〜10戒はある意味では簡単な者であると言えます。そして1戒〜4戒は「主」が唯一の神様であり、その主との関係が正しい関係である事を主ご自身が願っておられるのです。
 戒めを見ると一見自由が束縛されている様に思えるのも事実ですが、決してそうではありません。それを守る事で神様が与えようとしている祝福を最大限に受ける事が出来るのです。なぜなら戒めの根本には神様の愛が表されているからなのです。(要約)